(前回の続き)
そこで一つの答えにたどり着いた。
芸術の目的とは、人を感動させる事ではないかと。
技術を磨くにあたり、
どこを基準にしていくか、
どこを拠り所にして目指していくべきか?
それは人により多くの感動を与えられる方向を目指すべきだと。
この基準を持っていると、
どうなるか?
例えば自分が表現したい音楽があったとして、
それが他の人に全く感動を与えない自己満足のものであった場合、
以下のように自分の反応が変わる。
(1)人を感動させるという目的を持っていない場合。
それでもいい、人が分かってくれなくてもいい。
大切なのは自分が表現したい事をそのまま伝えることだ、
このまま我が道を突き進み続けよう。
(2)人を感動させるという目的を持っている場合。
どうやら自分の技術は人に感動を与えるレベルに至っていない。
人に感動を与える音楽がどのようなものか、まだ自分には理解できていないようだ。
人に感動を与える音楽とはどのようなものだろう?
と考えるかの違いとなってあらわれる。
これはあまりにも大きな違いだ。
前者はひたすらに自分の表現を続けるが、
一向に自己満足の域を出ない可能性が高い。
それはいつまでたっても人に評価されないという結果となって現れる。
一見、自分の信念を貫くといった正しい姿勢のように思えるからこそやっかいなのである。
後者は大衆に媚びる姿勢とは違う。
大衆受けする音楽が一時的に流行っていたとしても、
それが人に感動を与えるものか、
そうでないものかで冷静に判断する事ができる。
大衆の顔色を伺うのではなく、
主体的に自分で価値を判断出来るようになるのだ。
いいものと、そうでないものの区別が次第につくようになる。
本物か、本物でないか?
レベルが高いか、低いか?
の判断が自分でつくようになれば、
いいものは素直に取り入れ、
良くないものは反面教師とすることができる。
単純に聴衆受けしているか、していないかといったことだけで価値を判断しなくなる。
大衆は純粋な音楽の力以外の、ビジュアルなどの要素で高評価をつける場合がある。
だからこそ大衆に価値判断を委ねてはいけないのだ。
感動させるものは大衆に聞いても分からない場合が多い。
もちろん、自分自身も人を感動させる音楽とは何かを、
まだ分かっていない場合が多い。
そのため、
大衆よりも感動について研究し、
磨きあげた技術を表現する。
すると大衆は期待以上の、
想像以上の表現を目の当たりにし、
大いなる感動を受ける。
このスタンスこそ、
人を全く無視し自分の世界に入るのでもなく、
反対に、人に媚び方向性を見失うでもない
向上するにあたって基準とすべき
自分の芯が出来上がるのだ。
感動を追求するというテーマには終わりがない。
だからこそ生涯をかけて追求しがいのあるテーマなのだ。